満ちて来る潮(著:井上靖)

【満ちて来る潮あらすじ】
ダム建設に人生を捧げて生きていた紺野は、調査帰りのある夜に、月を眺める美しい女性ーー苑子に出会う。東京に帰り偶然にも苑子と再会するも、苑子はすでに人妻であり、ひょんなことから夫の瓜生とも仲良くなってしまう。だが、紺野と苑子は次第に惹かれ合い……禁断の愛を育んでいく。
夢を追い孤独に生きる人間たちを描いた恋愛群像劇。
今回は『満ちて来る潮』ネタバレ感想です。
筆者は人生で初めて井上靖先生の作品を読みました。文豪として名前しか存じ上げませんでしたが、今回の『満ちて来る潮』を読んで一気にファンになりました。わたし好みの作品すぎてたまりません。
一言で言えば『天竜川』のような作品でした。

天竜川……?

濁って、時に透き通って、気持ちが暴れまわるような作品です。
ちなみに私の在住は静岡県。舞台の一つとなった天竜川は私にとって馴染みのある場所なのです。

作中でも工事の影響で白く濁っているとの記述がありました。それは確かに井上靖が見た天竜川なのです。
本作は昼ドラのような展開で、確かに濁っていて美しいとは言えない情動を描いています。
しかし、その根底にある想いは紛れもなく本物で、澄んでいて美しい。私はそう思いました。

さて、私が本作と出会ったのは、佐久間ダムにある佐久間電力館。
ここで『満ちて来る潮』を知り読もうと決意。
なのに全然本屋で見つからず、ネットで注文して読みました。
まず間違いなく、本作は2025年に私が出会った小説で一番面白かったです。
それを前提に詳しく感想を述べていきます。
【今回の記事の概要】
・『満ちて来る潮』ネタバレ感想
・恋と倫理
・旅と恋
・総評
恋は倫理を踏み越えていいのだろうか

【恋と倫理】
・紺野は既婚者の苑子を愛してしまう。苑子は人妻なのに紺野を愛してしまう。しょう子は既婚者の真壁を愛してしまう。紺野との愛を貫こうと全てを捨てる決意をした苑子と、真壁との恋を諦めようとしたしょう子は、瓜生を折り目として対比されている。互いの生き方を尊重しつつも複雑に想う2人の心理は特に美しい。
主に4人の視点で描かれる本作。4人の心理が複雑に絡み合う、群像劇としてクオリティの高い作品でした。
惨めにも必死に倫理観を説いているのが、癖の強い人間として描かれる『瓜生』です。まともな3人は澄ました顔で一線を越えようとするのですから(しょう子は違うか)瓜生には同情の余地があります。
苑子視点では瓜生の醜い側面を存分に受け止めるから共感できるのに、しょう子×瓜生、紺野×瓜生となると、瓜生の真っすぐで純粋な側面を見ないといけない。誰に感情移入したらいいのかが分からなくなる作品です。
正直最後は瓜生が可愛そうで、心が締め付けられるような思いでした。
特に、苑子が紺野と駆け落ちする当日の変わらない瓜生。ここで同情しない男性はいないでしょう(笑)
苑子は夫が顔を出して、こちらに寝顔を向けると、この寝顔をそっと向こうへ向かわせた……布団から出たその顔を向こうに向かわせたのは、離婚しようとしている女の妥協のない心であった【p.389より引用】
自分が同じ立場になったとき……そんなこと考えたくない。
そして2人で天竜川を登り、佐久間ダムへ向かいます。
すでに心を決めていた苑子でしたが、紺野はギリギリのところで別れを決断。孤独と寂しさに苛まれた苑子は宿で薬を多量接種して死を選びます。最終的には目を覚まし、瓜生を筆頭に自分を想ってくれる人間に囲まれ、潮が満ちる感覚の中で終幕を迎えました。
ーー瓜生は私を愛してくれている。
ーーしょう子は私を愛してくれている。
ーー紺野が私を愛していた事実も変わらない。
物語的に言えば、紺野との間に燃え上がった炎は沈下され、現実に戻り一件落着といったところでしょう。
みんな真っすぐなんですよね。しょう子の婚約者であった多田もそう。
失くさなくてはならぬ恋情なんて、最初から持たない方がいいですね【p.289多田の言葉より】
別に不倫してやろうとか、無理やり結婚してやろうとかそんな風に思っている登場人物はいない。心に従って真っすぐに生きている。ただその美しさと孤独な生き方に、現代人だって共感できると思います。繊細な心がちょっぴり婉曲に描かれている様が、余計に想像を膨らませ共感を呼び起こす。
例えば、紺野がしょう子に結婚を申し込まれるシーン。
『紺野さんでしたら、私の場合どうなさいます?』
……
『僕ですか、僕はーー』
紺野は言いかけて口をつぐんだ。瓜生苑子への愛情がこの時ほど激しく燃え上がったこともなかったし、それがこの時ほど暗く苦しいものであることもなかった【p.388より引用】
これで駆け落ち当日に切り替わる。いやいやいや。言わない美しさ、感情が渦巻くさまが目に浮かぶ。ヤバいね井上靖。ここで燃え上がる情動が、最後の別れの寂しさを生む。まさに、ダムそのもの。
苑子と紺野のキスシーンも直接は描写せず、事後の唇の感触だけで表現している。こういうの本当に好き。余白を読んだり、心情を頭の中に絵で再現したりする小説の楽しさが詰まった井上靖節だと思います。

そろそろ本題にいけ

すいません!
閑話休題。
『……川の流れはこれまで何本も変えました。しかし、人間の歩いてゆく道は容易には変えられませんね。僕は川と特訓でいればいいんだ。それを柄にもなく瓜生苑子という人間と取り組んで、結局は手も足も出ない』【p.416より引用】
やはり『満ちて来る潮』で考えなくてはならないのは、紺野の選択肢が正しかったのかどうか。
……苑子の居ない人生の索漠さが早くも紺野一二郎を震え上がらせていた……【p.417より引用】
このページ間の落差。流石は元日本一の水量を誇った佐久間ダム!!
気持ちを押し殺す残酷さ。気持ちや本能だけで生きることができない人間だからこその葛藤。
正しさで測っちゃいけないと私は思う。
私は全部抱えて生きていくべきだったと思う。ダムも苑子も全部。
私も人生の岐路に恋をしてしまった経験があり、同じように悩んだ経験がありました。当時は恋を捨てて勉強と部活に集中すると決めて生きていました。しかし、今思えば、‘‘不器用な自分‘‘という理由に逃げていた気がします。女を言い訳にしてしまいそうな弱い自分がいて、抱えるのが怖くて逃げだしたんです。
私はその当時を思い出しながら読んでいました。
正しさなんて誰が作ったのかも分からない倫理観より、自分の気持ちを優先したほうがいい。私は当時を悔いているから。
でも、そんな葛藤に悩むのも、恋と人生の醍醐味というか。文学脳だとそういう思考にもなるんですよね。そこに明確な答えがあったのなら、人生も恋愛もつまらないと思う。私はこれからも紺野と自分の選択の正しさを考え続けるのだと思います。
思い出すのはアニメ『坂道のアポロン』
満ちて来る潮を読んだ方にはおすすめしたい作品です。紺野の逆を行く男が登場しますから。
誰かの日常は誰かにとっての非日常である

【旅と恋】
・旅の情景を背景に重なり合う恋模様が、本作の目玉。井上靖が目で見て感じた旅の世界に筆を下ろした名作なのである。旅の良さは恋の良さと同じなのだ。
知らない価値観に触れ、知らない景色を見る。
私にとって特別だけれど、誰かにとっては当たり前。
そして、自分の知らない一面を見て好きになる。旅はまさに恋だと思いました。
苑子には全く初めての眺めであった。このような川岸に、しかも山と山との間に挟まれた空き地に、互いに寄り添うようにして何軒かの家が立っている。そしてそこに人々は毎日のように同じ川の流れを見て生きている【p.230より引用】
不意にみた表情が、心にグッときた。私はそんな恋の始まりを経験したことがあるので、情景が重なるんですよね。
いつか見た景色の感動とか、温泉で感じたあの熱感とかが。
まさにそれらの重なりを体現した作品が『満ちて来る潮』のよさじゃないかと私は思うのです。
知ってしまって、我慢できなくなって、触れたくて仕方がない。
そうして静岡に移住した馬鹿がここにいます( ´艸`)
終わりに

【満ちて来る潮まとめ】
・恋と己の倫理観が試される名作
・苑子と別れる選択肢をした紺野は正しかったのか
・旅の良さと恋の良さが重なり合って心に響き渡る
・総合評価
今季最高傑作。
自分の恋愛観や人生観を揺さぶられながらも、その背景に滲む天竜川や十津川の美しさに心奪われる名作でした。
今の書店にはあまり出回っていないようですが、ぜひ手に入れて読んで欲しい名作です。
今回はここまで。ありがとうございました。
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