アニメ聖地巡礼とは?

アニメのモデルとなった地域を探訪すること。より作品へ没入するために、またはキャラとの同一化を図ることで、精神的満足を得る行為である。
今回はアニメの聖地巡礼を趣味としている筆者が、アニメの聖地巡礼についてを論じてみました。
昨今のアニメ聖地巡礼ブームへの理解のために、未経験者でも経験者でも分かるよう書いたつもりです(笑)今回主に主題とするのは下記の題↓
・アニメの聖地巡礼をする理由
・アニメの聖地巡礼の可能性
この2点について論じながら記事を進めてきます。

でも、アニメの聖地巡礼ってイメージが湧かないよ。僕らもいい印象はあまりないね。

マナーが問題視されることも多々ありますし、産業や文化として成熟しきっていないのかもしれませんね。

例えば大人気アニメ。キャンプブームの火付け役となった『ゆるキャン△』では、巡礼者が無断立ち入りをしてしまったことで、話題になったことがあります【参考:当時のニュース】
オタク文化は忌避される傾向がありますし、年配の方の理解や地域の方の理解を得るには難しい所があるかもしれません。
ですが、裏を返すと彼らがそこまで熱狂してしまう理由があるということなのです。
今回は実際にアニメの聖地巡礼を生業とする筆者が、聖地巡礼の魅力を論じながら、聖地巡礼の負の側面を払拭できればと思っています。
導入はここまでにして早速本題に入ります。
【再掲:今回の記事の焦点】
・アニメの聖地巡礼をする理由
・アニメの聖地巡礼の可能性
★聖地巡礼は昔から行われている★

アニメに限らず『聖地巡礼』という行為は、昔から存在する文化的行為であることをまずは前提としてお話したいと思います。
古くから、というか教科書でも習う聖地巡礼と言えば、エルサレムやメッカへの聖地巡礼でしょう。いわゆるイスラム教やキリスト教などの宗教が絡む行為。
例えば日本においても、お伊勢参りが盛んだった江戸時代を見ると、昔から『聖地巡礼』に近い行為は存在したと言えます。
『聖地巡礼』という行為は文化的かつ宗教的な行為に位置づいていたのです。
実際にその存在を視認して拝むことはできませんが、自らが信仰する神と一番近くで対話できる場所が『聖地』なのです。
神は都合よく自分の場所に降りてきてはくれませんから、特定の場所に行くのは必然と言えます。
結論、存在しないから『聖地巡礼』は成り立つのです。そこに存在してしまえば成り立たない行為であり、実際に存在してしまうのであれば、楽しみは薄れてしまいます。
では、現代日本を見てみましょう。
宗教への信仰が希薄な日本で、アニメ文化が発展しているのはまさに運命のいたずら。
かつてから日本人の心で育ってきた神様が姿を変えて、現実とは隔たれた世界で生きているのです。
オタクたちは心に宿ったそれぞれの神への信仰心に従い、それぞれのメッカを目指す。
古来より人間に備わっている神への信仰心が日本のアニメ文化に迎合して生まれたのが『アニメ聖地巡礼』です。
宗教への執着が薄い日本人が見つけた新たな文化であると言えます。
現代日本においてかろうじて残っている宗教的行為と言えばなんでしょう?
例えば寺社仏閣への参拝という宗教的行為は、もはや形骸化しています。
現代における寺社仏閣への参拝は、神様への信仰からくる欲求ではなく、自らの私利私欲を叶えてくれる神様をその度に選ぶ私欲からくる行為となってしまいました。
願いをかなえるために、もしくは建物の造形美を味わいに行っている場合がほとんどでしょう。私もそうです。
恋愛成就なら江ノ島に行きますし、受験祈願なら北野天満宮に向います。
現代日本人は簡単に浮気してしまうほど、信仰心が薄いのです。それは聖地巡礼とは程遠いものになりました。
ですがアニメ聖地巡礼という行為は『実在しない神様に会いに行く行為』なのです。
これは本当の意味での『聖地巡礼』であり、昔から営まれていた宗教的行為です。
宗教に関心が薄い日本では、『聖地巡礼』という失われた行為が、アニメ文化に迎合されることで新たな形で発現したのです。

つまり‘‘アニメ‘‘聖地巡礼というのは、誰しもの心に宿る当たり前の欲求なんだね。

その通り。アニメ聖地巡礼は『日本の文化』なんです。
『キャラに会いたい』
ただこの一心で来ているオタクの心理は、皆さんの心にも宿っているはずの失われた信仰心。少し理解していただけたでしょうか。
普通の旅行にマンネリを感じ始めた方々、まずはアニメを見てください。さすれば失われた信仰心が心に宿り、気づけば聖地に赴いていることでしょう。
『聖地巡礼』はアニメを好きになったものだけが楽しめる新たな‘‘観光の形‘‘なのです。
★アニメ聖地巡礼にしかない魅力★

『神があなただけの世界に宿る』
それが筆者が考えるアニメ聖地巡礼の魅力です。
この何の変哲もないバス停。筆者はこれだけでご飯3倍はいけます。何時間でも語ることができます。
この私が感じている興奮は、アニメを見てもらって、さらに私の口から何が見えているのかを事細かく説明することでしか共有することができません。
例え同じアニメのファンであっても、話すことでしか伝えられない閉じられた世界だから、アニメ聖地巡礼は素晴らしいんです。
例えばこのバス停。『Just Because!』というアニメの聖地ですが、このバス停を友達二人で見ているとしましょう。
何の変哲もないバス停に興奮しているオタクが二人。ここの場合はそんなに回数は出てきていませんが、複数のシーンで登場するバス停です。
ということは、同じ場所を見ていても想像するシーンやキャラはそれぞれ違うんです。
あなたの目だけに宿るシーンやキャラがいる。
例えどんなにクライマックスの名シーンであってもです。分かりやすくするためにキモく表現しますが、そのキャラの髪の毛を見ているかもしれない。胸のふくらみを見ているかもしれない、表情を見ているかもしれない。皆着目している場所は違うはずです。
つまり、
特に好きなアニメなら、それは性癖でもあり、自らの人生を映した鏡にもなりえます。
みんながみんな同じ世界を共有出来たらダメなんです。二次元という理想、すなはち神様を見ているからこそ、オタクは皆心の内を好きなアニメに全て託しています。
自分の目にだけ宿る世界があるから、聖地巡礼に赴くのです。

どういうこと? みんなで共有できた方がいいよね?

世界観の共有も魅力だと思いますが、筆者の思う魅力はそこだけじゃありません。
筆者は上記アニメに自らの青春を託しています。心の内に秘めた青春コンプレックスを曝け出しているのです。
そう簡単に心の内を知られるのは困りますから、みんなに見える形で存在していない方がむしろ都合がいい。
実際に存在しないから。頭の中で現実と二次元の世界を重ね合わせることでしか生まれない世界だから。自分の目に自分だけの神様を宿らせることができるのです。
信仰する者として、神様を独占できる優越感は、何にも勝る幸福であると言えませんか?
あなただけのために準備された観光地であると言えます。
これが筆者が考えるアニメ聖地巡礼の魅力です。
【終わりに】アニメの聖地には無限の可能性がある

アニメの聖地は、崇拝する誰かに唯一合いに行ける場所。そこに愛があれば成立するのです。
・宗教的行為に近い、現代日本の生まれ変わった『聖地巡礼』の形。
・アニメ聖地巡礼は、新たな『日本の文化』である。
・アニメの聖地は、優越感の上に成り立つあなただけの観光地。二つの世界が重なり合うことであなたの目には神様が宿る。
そして最後に論じたいのは、アニメ聖地の可能性。
アニメの聖地はたくさんの世界に繋がる幸せの扉であること。
アニメの聖地=現実+想像であるならば、想像の面には限界があります。
アニメで起きたことが事実。それが変わることはありません。アニメの聖地として愛されるためには、現実の世界も重要な要素。

例えば今も根強い人気を誇る『ヤマノススメ』という作品。聖地は埼玉県飯能市になります。その名の通り山登りを主題とするアニメですが、筆者はこの山に登ったことで、アニメ関係なく山登りが趣味になりました。
つまり、幸せだと思える時間が増えたということです。
アニメを好きになることで、世界は何倍にも広がります。
ゆるキャン△ならキャンプの幸せを、ヤマノススメなら山登りの幸せを。
さらに発展するなら、アニメの聖地に移住するという行為は土地自体も愛してくれるという最高級の愛。
アニメの聖地は、たくさんの世界に接続する扉。その機能を存分に生かすためには、誘致する側が全力でやらないといけないのです。
適当に『はいはい、聖地ね』とイベントを開かれるだけで、オタクがコロッと落ちると思ったら大間違い。アニメの聖地を享受する側も、与える側もアニメへの愛が問われます。
無限の可能性を秘める日本の観光産業、それがアニメ聖地巡礼です。
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